ヘイトスピーチ規制に関する補足
はじめに 2020年2月8日付 朝日新聞掲載の耕論「ヘイトの境目」に反響をいただいています。 この記事は、全国で初めて刑事罰を伴うヘイトスピーチの規制を行うこととなる 川崎市の条例について、識者3名(川崎市長の福田紀彦さん、評論家の真鍋厚さん、そして私)の見解を、 それぞれ同紙の記者が取材しまとめる形で掲載しています。 紙面では1)紙幅が限られている、2)前提知識も様々な幅広い読者に伝わる 内容であることが前提である(憲法やヘイトスピーチについてよくわからない人が 読んでもわかること)ため、詳細な議論を展開することはできません。 また、朝日新聞がヘイトスピーチをテーマに「耕論」を組むのはこれで少なくとも3回目であり、 たとえば憲法の表現の自由との関連などについては、これまでにも弁護士の方などによって論じられています。 こうした中、私の議論の力点は「マイノリティー」の権利保護の観点からの政府の 積極的役割の重要性、公人の発言の重大性、に絞られていたと言えます。 なお、今回の論説の原型として、法学セミナー2018年2月号に掲載した拙稿「差別と公人・公的機関の役割:『平等』と『個人の尊厳』の実現のために」 があります。そこでは、ヘイトスピーチの規制という受動的な対応のみならず、人種融和のために政府がより積極的な役割を果たしうる例を、 アメリカにおける日本人・日系人差別の歴史を例に論じています。 日本人がヘイトスピーチ規制を考える上では、自らが(日本人として)外国で差別に遭った場合を考えてみるとよいと思います。 そのことで、マイノリティ当事者の感覚がより感じられることと思います。 それでは以下、今回の紙面では収まらなかった点について、補足します。
1.ヘイトスピーチの定義について 「ヘイトスピーチ」をそのまま日本語に訳すと「嫌悪」表現あるいは「憎悪」表現となってしまい、 「過度に広汎」になる恐れがあります。 「過度に広汎」な表現規制は、表現の自由を侵害する恐れが高まるため、定義はなるべく限定的に行う必要があります。 すなわち、嫌悪や憎悪=ヘイトとしてしまっては、人間の感情や表現のかなりの部分を抑圧しかねず、 「ヘイトスピーチ」規制がそのような結果をもたらすことがあってはならないと思います。 世界各国における「ヘイトスピーチ」規制は、人種をもって人を憎悪し排除するような言動を 対象としており、ここにおける「ヘイト」は「人種憎悪」に限定すべきと考えます。 たとえば人種差別撤廃条約には以下のような条項があり、定義の道しるべとなります。 第4条  締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝 及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、 また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。 このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。 (a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の 集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、 法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。 (b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は 活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。 (c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。 また、最新のアメリカの最高裁判例においては、歴史的に黒人に対する脅迫的な象徴表現として 用いられてきた「十字架を燃す」(cross-burning)行為について、脅迫的な意図に基づいて 行われたことが証明される場合には、刑事罰を科すことは修正1条(表現の自由)に抵触しないとされています。 (Virginia v. Black事件、2003年) これを参考にするならば、「歴史的経緯」ゆえに相手に対して恐怖感を覚えさせる性質の 言動で、発する側もそのような脅迫的な意図を持って行う言論を問題とすることができます。
2.表現の自由との関係について 1)日米の判例が基準としてきた事象は「対政府」の言論 表現の自由に抵触しかねない規制について、表現の自由の優位性を保とうとする判例は 日米ともにありますが、いずれもコンテキストとしては、反戦運動など政府の施策に 反対するデモやビラ配りに対して、法的規制をかけることに慎重であらねばならないとの文脈に出ます。 米国の場合は、第一次世界大戦期にこの手の規制が問題化し、「明白かつ現在の危険」 (clear and present danger)の法理が生まれました。 また、日本の場合は、第二次世界大戦後の新憲法下において、政府の施策に反対するデモ行進などを 規制する各地の「公安条例」が表現の自由に抵触しないかが争われました。そこでは、 内容中立的な規制で、実質的な届出制(デモの中身の当否について政府が審査するわけではない)に 留まる限りは憲法に抵触しないという判断が最高裁によって示されています。 言い換えれば、この文脈では、デモの内容に踏み込んで政府が許可を出したりしなかったりするのは、 表現の自由に違反するということになります。 ここでは、「政府に対する批判的言動」を規制しようとすることが表現の自由本来の趣旨(政治的言論の最大限の保護)に 背くことから、そのような規制は望ましくないという考え方が前提にあります。 2)ヘイトスピーチ(マイノリティへの脅迫・威嚇)は従来議論の基準となって来た事象とは性質が異なる これに対して、ヘイトスピーチ規制は、社会内において優位性を持つ集団が、マイノリティ集団に対して 組織的な排除・攻撃を行うことについて、政府がマイノリティ集団の保護の観点から介入するものです。 規制の対象となる言論は、政府に対して向けられたものではなく、社会内のマイノリティに対して向けられた脅迫・威嚇です。 従って、この種の言論からマイノリティの尊厳や安全を守るために行われる規制を、 政府の政策に対して向けられた言論を政府が抑圧しかねない規制と同列に捉えることはできないと考えます。
3.差別の歴史についての教育とは 1)なぜ歴史教育が重要か 論説では、ヘイトスピーチ問題について理解をするためには、差別の 歴史を知ること、そのための学校教育が大事であるとも述べました。 何事も、問題の真の理解には、一連の論争の起源や経緯を知ることが大切と考えます。 憲法がなぜ大事であるのか、あるいは表現の自由や法の下の平等がなぜ大事であるのか、 それぞれの国や社会にその元となる出来事や論争があるはずです。 一例ですが、アメリカで、「鞭」や「木から吊るした縄」がなぜ黒人に恐怖感を与えるような象徴表現になるのか。 それは、奴隷制度(鞭打ちが、奴隷を律する行為として奴隷主に認められていた)の歴史があり、 奴隷制廃止後も黒人に対する集団リンチ(lynching)が続発し、犯罪の濡れ衣を着せられた黒人が衆目監視のもと、 木から吊るされて殺されるというようなことが行われてきたからです。 2)アメリカでは標準的な取り組み こうした歴史を学ぶことは、トーンや力点の違いこそあれ、アメリカでは標準的と言えます。 アメリカで生まれ育ちながら、奴隷制度について一度も学ぶことなく成人することはまずあり得ません。 また、人種差別の歴史から権利獲得・平等を希求することを学ぶことも、広く行われています。 たとえば、キング牧師の功績については、アメリカ人のみならず、日本人の多くも知っています。 日本の学校で「私には夢がある」(I Have a Dream)という歴史的な演説について学ぶことが多いからです。 こうした理解があるからこそ、人種差別的な事件が起きた時に、 社会のかなり広範な部分はその重大性や衝撃を知ることができるのです。 3)取り組みを巡る対立と共通認識について 差別を巡っては、たとえば現存する格差が構造的差別を原因とするのか、あるいはマイノリティ集団や 個人側の問題にも起因するのかなど、政治的立場やイデオロギーによって一定の対立もあります。 特に1960年代以降、よりマイノリティの視点を重視したカリキュラムを大学に設けるべきとして、 全米各地の大学でethnic studiesやwomen's studiesといった科目あるいは専攻が設けられるに至りました。 こうした科目あるいは専攻で重点的に学ぶ視点と、一般的な歴史や政治の授業で学ぶ視点には違いもあり、 マイノリティ問題への温度差はあります。 しかし、かつて奴隷制度が存在したこと自体について、あるいはアジア系移民に対する排斥運動が 存在したこと自体については、誰しもが認知するところであり、それ自体を否定したり、 学校教育の場で伝えない(なかったことにする)ことはいずれの立場においてもあまりないと言えます。 存在してきた差別について学ぶことは、自国を貶めたり、自国への誇りを失ったりすることにはつながりません。 そうした差別を乗り越えつつ、より包摂的な社会を作って来たことについて、誇りを持つことは十分可能です。 また、特にマイノリティの人間(子どもたち)にとっては、教育の場で自分たちの存在を公に認知されることが、 承認(recognition)と自己実現への第一歩とも言えます。
ひとまず以上です。 今後随時補足します。 (秋葉丈志) 2020年2月16日 初版 2020年2月16日 追記 ホームページに戻る