教育日記・2
卒業式
今日は卒業式だった。
ハレの日を迎えた学生を送り出して華やぐ気分、と言えればいいのだろう。
しかし、毎年この日を迎え感じるのは言いようのない喪失感と虚脱感でもある。
新聞の人生相談欄などに、しばしば、親が子離れに未練を感じ、
「子の自立を頭では祝福しないといけないとわかっているが、心が付いていかない」
という類の記事を見かける。それと似たような気持ちなのだと思う。
前提として、勤める大学がアットホームで、授業は多くて30−40人、しばしば
15人程度で行っていることがある。一学年わずか175人、このうち自分のゼミに
所属する定員は年間20人余り、その他の学生とも多くは数年間に渡り、授業内外で
繰り返し会い、顔と名前も一致し、授業のことのみならず、進路から人間関係、
家族のこと、悩み事など、それこそ「全人格」的に接しているということがある。
そうした人間的接触への日々の満足度はとても高い。私の幸せの源の一つである。
ところが、それだけに別れの日は幾数段強い喪失感を伴う。
在学中、とても近く人格的に関わってきたが、卒業をすればその大半とは
ほとんど連絡もなくなる。
それは仕事のことだから当然といえば当然のことだ。
そうはわかっていても、教員はこんなに寂しい気持ちも抱えるものなのだろうかと、
教員をして初めて思う。
今日になって、卒業式のホームルームで泣いた小学校の先生の気持ちの
一部でも共有できた気がする。
いつも黒い服ばかり着ていて「カラス」というあだ名まであった
その先生は、卒業式の日(袴だったか着物だったか)淡い桜色を
湛えた衣装を身に纏って私たちを驚かせた。
祝いと別れへの潔い気持ちを一身に纏っていたのだと、いまなら分かる。
卒業式。
袴姿に髪を整えた美しさ、ガウンを羽織り、凛とした表情の学士たち。
きゃっきゃっと子どもっぽさも漂わせていた19歳は、大人らしい表情を得た22歳になっている。
本当は最後にこちらからでも「さようなら」と駆け寄りたい学生は、
卒業生一覧を見れば数え切れないくらいいる。それくらい多くの学生と
たくさんの時間を過ごした。
しかし遠く卒業生席は並び、彼ら彼女らにとってまず共に祝うべき友人や家族がいる。
それでも何人かの学生が、「先生写真撮ってください」と駆け寄ってくる。
そのときばかりは、素直に「おめでとう」「また大学に遊びに来てね」と言葉が出る。
実際にそう思う。
一枚の写真を残して。
喧騒が去ったあとの空気が一際鋭い静けさを感じさせるように、
心にぽっかり穴が開いたように、佇んでいる自分がいる。
秋葉丈志
2012. 3.22
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